昭和46年11月26日 朝の御理解
御理解 天地書府
『生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい。』
教祖様が、この天地書附を沢山書き留めさせられて、そしてそれを参って来る氏子に、所謂お下げになっておられます。そして、是を見良い所に貼っておけと。何時も、言わば心に掛けておけと言う事でありましょう。お道の信心の、この天地書附に絞られて良いと、私は思うのですけれども。その為に、私共の信仰心と言うか、と云うものを変えて、変えてしまわなければ本当の事が分からんと。
神様と云うのは、神も仏も同じですけれども、悲しい時の神頼み的な、神様と私共との関係にある様に、まあ、そう云う観念がある訳ですね、私共には。ですから、お願いをしなければならない、頼まねばならないからお参りをすると。ですから、どうしても其処に、やはり、御利益と云うかね、おかげと云うか。それを前に立てての信心になって、そして、此処ん所を分かっておる様であって、もうやはり、此処ん所に焦点が置かれずに、やはりおかげを受けると言う所に焦点が、強く当てられておる訳なんですね。
自分の願いが一つ成就すると、事の為に本気でお参りをさしてもらおう、拝ましてもらおうと。そりゃね事実は願わなければおられない事ばっかりなんですよね。けれども最近頂いております様にその願う、願う事がどんなにおかげを頂いても頂いても、やはりもう是で良いと言う事はない。願わなければならない事は、次から次とそれこそ雲のように湧いて来る。心に「根賀以」と云うあの此処で出しておった新聞の字は、木の根の「根」です。それから「ガ」は和賀心の「賀」賀びと云う字賀正の「賀」ですね。
イはこの「以って」と。「賀びを以って根とする」と頂いて「根賀以」なんです。私はこの此の事を最近改めて又、是を頂き直させて頂いておる訳で御座いますけれども、是が金光様のご信心の、やはり根本だと思うですね。「願い」願わなければおられない。また神様も、願われなきゃ、願う事を喜びとされる。氏子が願ってくれる事を、ね。「頼まん事は神も知らん」と昔から言う湯にですね、神様とても願わん事を、このおかげにして下さる事の出来ない場合もある訳なんです。ね。
ですからやはり私どもが願わなければならん。また、願う事一杯。けれどもその願いは何処までもです、ね。何処までも、「賀びを以って根とする」もんでなからなきゃならない。「我に何の値打ちありて かくまでにして頂くと 思えば苦し」と、是はちょっと昨日、此処へ書き付けてみたんですけどね。「我に何の値打ちありて かくまでにして頂くと」「かくまでにして頂くと 思えば苦し」と云う程しにおかげを受けておるね。何も取り得のない、それこそ、まあ自分と云う物を愈々見極めて見るとです。
何処に自分が値打ちのある自分であるか。それにも関わらず、こんなに言わば大事にして頂くと言う事。その大事にして頂くと言う事はですね。綺麗な着物を着せてもろうて、良いお家に住まわせて頂いて、美味しい物を食べさせて頂いてと云う意味じゃないです。ね。所謂天地の親神様の御恩恵を、もうかくまでに浴しておるね。それはお粗末な着物かもしれない、お粗末な食べ物かもしれない、お粗末ななら住まいかもしれないね。それでもですやはりね。神様が下されてあると、恵んで下さってあると思えばね。
嬉しさよりも苦しさの方が先に立つと云う程しに、自分と云う物が見極められる。そこから、本当に、あれも神様の御恩恵、是も神様のおかげ、と心の中に喜びが湧いて来る。そんなら、それ程しのおかげを受けて、ね、苦しい程におかげを頂いておるのであるから、もう要るまいと言うとさにあらずです。やはり願わなければおられん程、沢山に願いはあると。ね。願うとまたおかげを下さる。もったいない。
と云う様にその賀びを以って根本として、しかもその賀びの心を以って願うと云うのです。もう是だけ頂いておるから、何を願おうかと云うではなくて、ね。その願いの心が湧いて来る、それが金光様のご信心。願わんで良いちゅうもんない。そう云う願いを持つ事が、言うならば親孝行金光様のご信心。其処から言うならばおかげ、御利益をいよいよ受けて行くのが金光様のご信心。けれどもその根本にするとなる所の物は、喜びである。だから私どもがその賀びを以って願って行く。
所が実はその賀びって云う物が、非常にこうまあ浅いものでありますとね、願いのほうにはやはり、強いまあ言うならば、祈りができるけれども、その喜びに対する、そのお礼の心がさほどにない、と云う様な事になって来る。今朝私は御神前で、木の実、木の枝ですよね、木の枝にこう糸を、そしてから魚を釣ってる所を御心眼に頂いた。で普通竹竿でこうしてね、そしてこう竿が、それに糸やら浮かせやらが付いて、こうお魚を釣ると云うんですけれども。
もうちょっとこうやって木の枝です、カツンとした様な。それでこう釣った。信心が私はほんとうに好きだと言う事。言うならば、「信心三昧」と言う事を申します。ね。是は信心が好きだと云う意味なんです。「釣り三昧」と言う事もそうですね。釣りをしておる、魚が捕れるから楽しいと云うのじゃない、嬉しいと云うのじゃない。もう釣れても釣れんのでも、ね、釣り糸を垂れておると言う事がです、楽しいとい云うのが、あの釣りをする人達の心の、じゃなかろうかとこう思う。
それは勿論その上釣れる事も楽しい。けれども釣れんでもジーっとこう浮かせを見つめて、その間その間の事が私は「釣り三昧」と云うのであろうとこう思う。魚がどんどん釣れる、その楽しみを釣り三昧とは言わない。ね。釣れても釣れんでもジーっとこう辛抱しながら楽しゅうその釣りをしておる、それが「釣り三昧」ね。だから信心もそう。御利益を頂くから有り難いと云う信心は、まだ本当の信心じゃない。御利益の方は例えば頂く頂かんは別としてです、ね。
ただ信心をさして頂いておる事が好きであるね。朝晩の言うならお務め前もさせてもらおう。神様を一心に拝ませて頂くその事が楽しい。何じゃ神様事を一生懸命しとれば楽しい。何かと言や神様の前にばっかり出るようにあると云う様な、私は信心がまあ「信心三昧」に、言うならばふけっておる人達の姿だとこう思う。ね。四神様の二代金光様の御教えに、「この方の信心は病気治しや災難避けの神ではない」と。「心治しの神じゃ」とこう仰る。ね。ですから私どもが、信心が本当に好きになると言う事。ね。
三昧にふけれると云う程しに、信心が好きになると言う事は、ただその拝む事だけ、例えば参る事だけのその内容がです、ね。自分の心の中に、より信心が喜びが頂けて来るから有り難い。信心の喜びがね自分の心から、是はまあ何処から湧いて来るか分からん程しの喜びが湧いて来るそれが有り難い。其処へ私達の信心がです自分の心の上に、例えば信心の喜びが湧いて来る、所がなかなか何時もそんな訳にはいかん。湧いておる様である、自分は信心を好きであると言うても、ではない場合もある。
喜びではない喜びが湧いて来ない様な場合もある。昨日信心の研修会に文男さんがこんな事を言うておられました。話しておりました。十六七万ぐらい着物のあげておるお得意さんでもう一年まんま、なんか二万円ぐらい内金を入れたっきり、その金を払いなさらん。しかもほんに世の中にこげな悪か人がおりなさるじゃろうかっち思うくらいに、もう実に冷淡な態度で言っても言っても金はくれない「そげな事なら着物ば持って行かんの」ち言うから持って行こうと思ったっちゃ、出しちゃ出してはくれんて。ね。
もうその人の家に行く時にはね、もうそれこそ、生神金光大神様、金光大神様だけれどもです、もう何と云うでしょうかね、その家の前で一応深呼吸してから入る、と言うておりました。私はそれを聞かせて頂いて、有り難いなぁこの人が腹を立てんと言う事を一生の修行にさせて頂いておるが、例えば商売させて頂いておっても、それはもう本当に腹の立つの、そう云う様に入る前、またもう本当にこげな悪い人間がおるじゃろうか、と思う様な態度に出られる時に、腹立てる訳にいかん様な場合がある。
けれども、立てちゃならんと思うから、まず、「生神金光大神様」であり、それこそ深呼吸して入ると。さあ、例えば「どげな態度をとられても、どう言う事を言うても腹だけは絶対立てんぞ」とこう思うて行く、とこう云うのである。私はですねやはりあの、金光様のご信心にはそれが要ると思うんです。ね。そこに私は言うならば、和賀心を崩さんで済む。信心を頂いておる者の値打ちを崩さんで済む、私はおかげを頂かにゃならん。そしたら昨日、やらして頂いたげなが、やっぱりその。
今日の持って行けっちしっかり言うた。で今度はそのほんとに出してくれたとこう。もちろん、それはまあ貰うて帰ったが、もうそれはんならそんなにもう値打ちのあるもんではなかろう。一年間も向こうへやっておった着物なのですからね。けれどもそれこそ深呼吸して行っとるですからね、それを受けるその心の状態と云う物がです、ね。そうして、それがね、信心の一つの過程であり、信心の一段進めさせて頂く節だ、と云う意味の事を言うておりますですね。
現在の私に例えば十何万と云う、もう完然に引っかかると言った様な事は、まあ是は大変きつい事である。ね。けれども二十万でも三十万でもと言う所ではない。けれどもそれが段々大きくなって行くとこなんだね。だから十何万、まあ十七万だったと、だから二万もろたら十五万ね。十五万の、言うならば引っかかりになるわけでしょうがね。まあ十五万ぐらいなら、おかげを頂いて、ね。所謂腹を立てんで済む信心を頂いておる、値打ちを失わんで済む。
けれども是が、もっと金額が多かったら分からないけれども、神様は適当にです、そう云う信心の稽古をさせて下さると云う、文男さん独特の表現ですね、様なお話をしておりましたね。もうそこにはその、御利益と云うのとは、全然切り離しとる、ただ自分自身の和賀心と云うか、信心頂いとる値打ちと云うものだけが、そこにあるのです。「どうぞ神様、その金がとれますように」と言った様なものではなくてですね、相手からどう言う風に出られても、それをどう受けようか、じゃなくてから。
腹でも立てる様な事で受けてはならんと言う事だけに焦点を置いとる。本当に信心の何たるかを、まず心得ておらなければ出来る事ではないと思いますよね。信心ちゅうのは御利益と結び付けてない。ね。ですから例えばそう云う精進そう云う心にです、神様はおかげを下さってある。「賀びを以って根とする」と云うその願いそのものが、ね「どうぞ、信心を頂いておる値打ちを損なわんように」と云うのを願いである。
「今月今日で一心に頼めい」と、今月今日で一心に頼んでおると言う事は、私の心の中に、信心の喜びが、信心を頂いておる値打ちと云う物を何時も感じておる。まあ喜びではなくても、皆さんもそれはそうでしょうが。ね。信心を頂いておると云う値打ち。合楽に御神縁を頂いておると言う事の有り難さと云う物がです、有り難いものがこう湧いて来る訳じゃないけれども、そこに値打ちを感じておる。合楽に御縁を頂いておると言う事の値打ちは、此処だなぁと、此処にその、皆さん感じておる。
その値打ちをです、壊す事のない様にと、今月今日で頼んで行くと言う事。ね。例えばそう云う場合に、そんならね、それこそケンカ口論して帰って来たと致しましょうか、ね。もう信心を頂いておる値打ちはないですねそれじゃ。簡単に御事柄として受けると云う「御事柄御事柄」と云うけれども、その御事柄として受ける為には、今言う、文男さんが昨日話しましたような、その内容がです、何時もなからなければ、御事柄であっても、御事柄として受けきらない。ね。
それが例えばなら、御利益なら御利益だけが、前に立っておったらです、「信心しておっても、こげな引っかかりがあって」と云う方が、先に出て来る訳。ね。是によって信心の稽古をさせて頂いておると云う、まあ言わば頂き方。釣れるとか釣れないじゃない、とにかく、ね、魚を釣っておるその間の、言わば時間と云う物がです、づうっとこう、釣り糸を垂れておるそこに、いわゆる三昧境があると云う様に、信心のいわゆる三昧境と云うか、信心が好きだと。
そう云う例えば修行をさせて頂いて、例えばなら、夜なら夜の御祈念に御神前に額づかせて頂いたら、もう愈々、是が信心の三昧境じゃろうかと云う味わいがね、「神様今日も本当に結構な修行をさせて頂きました」と、所謂私は有り難い物になって来るんだと思うんです。本当にですね、其処の所を本当に私はあの、目細う、所謂もう金光様のご信心は、是だけに絞ってよいと思われるくらい、ね。沢山の御教えの全てがです、この天地書附、所謂和賀心を頂かせて頂く事の為に。
あらゆる角度から説いてあると言うても良いのである。ですからここん所ば本気で目細う大事にされなかったら、だから金光様のご信心頂いておる値打ちはないと。おかげを頂くと言う事が値打ちと云うならね、知らんけれども和賀心を崩しては値打ちはない。信心を頂いておる者の値打ちはないと言う所まで、私どもの信心がです、ね、本当の金光様のご信心ぶりにならせて頂かなければならない。ね。そう云う心の状態とか、そう云う精進に、例えば最後には、所謂「おかげがある」とこう仰る。
所謂信心を頂いておる値打ちと思われる様な心やらね、和賀心と云う物が、私は信心の三昧境と思わしてもらう。ね。いや、信心の三昧境は、そう云う心の状態からしか生まれては来ないと言う事。所が今日、私が頂きます様に、ね。魚を釣っておる。けれどもそれは、竿ではなくて、木の枝である。それでジーっとこうやって見ておるけれども、魚が引きよらん引きよらんちゃ分からん。ね、こう木の枝ですから。ね。
だから私は、その今日は、木の枝と言う事がです、私どもが木はまあ心と致しましてね、もう枝葉ぐらいな所に、和賀心と云う物を置いておるのじゃないかと思います。金光様のご信心なもう天地書付。いやもう金光様のご信心なもう和賀心。朝晩唱えるとは天地書附何十遍唱えるやら分からん。「生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり」と何十回唱えるか分からん様に唱えておってもです。
それがもう根本の幹の所から、それが唱えられておるのじゃなくて、枝葉のとこで唱えておるんだと言う事になる。だから精進もその程度しかできん。あらまた失敗したと言う事になる。だから本当にこの、今日私が申しま「和らぎ賀ぶ心」と云う物は、そう何時もかつも頂ける、感じれるものじゃないでしょうけれどもです、ね。信心お道の信心を頂いておる者の値打ちと言う所をそこに置かなければいけない。ね。
お道の信心を頂いておる者は値打ちがです、例えば今日例えばどんなに腹の立つ様な事を言われても、その家の前でひとまず、天地書附「金光様」とこう大きく深呼吸して入ると云う様なです、ね、そう云う精進がお互いなされておらんのじゃないかとこう思う。金光様のご信心の枝葉の所だけを頂いておる。だから、魚が引きよっても分からないくらい。ね。おかげが第一。そして教えを頂くことが第二、それを行じることが三と言った様な程度になってるのじゃないだろうかとこう。ね。
所謂丁度木の枝で魚を釣っておる様な、お互い状態はなかろうかと。ね。その中心の心、その幹の心。木の枝ではなくて、ね、その木の根本の幹の所に、私共が信心を置かなきゃいけない。信心を稽古さして頂く焦点をそこに置かなければいけない。ね。成る程本心の玉を磨くものぞ。日々の改まりが第一ぞと言う事になる訳。信心の修行もんなら日々の改まりも、本心の玉を磨く事もです、何処に焦点を置いて磨いて行くかと、信心を進めて行くかと云うと、結局「和賀心」を焦点にして行かなければならないと。
是が私は本当所謂心を、自分の心の中心をもって信心をしておる訳。言うならば、ね、魚を釣る人が、本当に釣り竿を垂れて魚を釣っておる。釣れる釣れんは別としてです、ね、釣っておる事その事自体が楽しい。いわゆ三昧境に入って行けれる。信心の三昧境に入って行けれると云うのは、ね、所謂おかげを先に立てたものではなくて、何処までも和賀心を目指しての信心修行。しかもそれに取り組んで、本気で修行させて頂いて行く身の上にしか、三昧境は開けて来ないと思う。ね。
どんなに今日一日が、例えば辛いとか苦しい一日でありましてもね。信心を頂いておる値打ちを一日感じながら、有り難い物は湧かんですよ。湧かんけれども信心を頂いておる者の値打ちを感じながら、一日修行をさして頂いたと致しましたらです、もうそれこそ夜の御祈念にです、御神前に座って御祈念をさしてもらう時にです、「今日もこんな広大なおかげを頂きました」じゃなくてもです「今日もほんとに結構な修行をさせて頂きました」と。もう心の底から修行さして頂いた事にお礼が言えれると思う。ね。
それが、三昧境に入って行く。信心が愈々好きになって行きよる、私は印と思う。そう云う信心が続けられて行く限りです、ね、おかげは受けられない。ね。そう云う例えば「本当に今日もよい修行をさして頂きまして有り難う御座いました」と云うお礼の言えれるその心でです、明日の事をまた願ったらいい。ね。「今月今日で頼めい」と。私共がですね、信心をさせて頂いておる、その状態が、ね。木の枝に糸を付けて、魚を釣っておる様な程度の事ではなかろうかと。ね。
是は一つ枝ではない、本当の中心がそこになってしまわなければならない。信心とはそう言う。お道の信心のと云うのは、所謂お道の信心をさして頂く者の値打ちと云うのは、ね、何時も和賀心で受けれると言う事は最高でしょうけれども、和賀心ではなくてもです、ね。信心頂いておる値打ちをそこに感じれれる受け方がです、ね。私は為されていかなきゃいけない。そして其処の所を焦点、それが中心にならなければならないと言う事。ね。そこからです、例えば、ね、苦しい事に対してでもお礼が言える。
「結構な修行さして頂いて」と有り難いお礼が言えれる。その有り難いと云うその心が賀びである。信心を頂く者の値打ちであり、喜びである。その賀びの心を根として願って行けと云う訳なのである。ね。「根」賀びを以って根とすると云う「根賀以」なのです。けれども、今日私が申しました様な所を外して、例えば願って行くとするならです、成る程お取次ぎを頂いてお願いをして、おかげを受けておると云う事実はありますけれども、それでは、所謂、金光教の信心をさして頂いておられる。
合楽に御縁を頂いておる、言わば値打ちと云う物はない訳でしょうが。ね。本当にね、その値打ちを感じれれる信心をね、身に付けて行きたい。そして、本気で信心が好きになりたい。それは釣れても釣れなくても、釣り竿を、良い釣り竿に糸を垂れて、魚を釣る人達がある。ね。釣り三昧に入って行く、その境地と同じ様なものが、信心の上に頂かれる。ね。そこには、暑いけれども暑さを感じず、寒いけれども寒さを感じん程しのおかげが頂けて来るわけです。ね。
一応は金光様のご信心をしとれば、それこそ、日に何回となしに天地書附を奉唱いたしますから、ね。皆んな金光様のご信心の所謂、お題目と云う様に頂いておるんです。けれどもその頂き方が、言わば、ね、木の枝で魚を釣っておる様な程度にしか頂いておらん。其処にね、本当のお道の信心を頂いておる値打ちが発揮されて来ない訳です。ね。此処ん所をひとつ、まあ繰り返し申しましたが、本気で一つ頂いてみらない、頂かなければならない所だと思うですね。
どうぞ。